投稿日: 2025/03/09 21:38:53
カテゴリ: 闘病記
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我ながら妙なタイトルだなと思うのだけれど、2日前に謎の流行り病らしい感染性胃腸炎で熱を出してダウンして、今は無事回復して療養中で元気なのだけれど、もし自分が今死ぬとしてやり残したことはなんだろうと思ったとき浮かんだのが、昨日記事にした造形についての記録整理と、そしてマインドフルネスについての記録整理だった。
昨日の記事でも書いたけれど、正直記事として残しても残さなくてもどちらでも良いような、特筆性のある中身ではないのだけれど、それでも今やり残したことがあるとしたらこの心の整理なので、以下に心境をまとめておきたい。一人の人間の10年間のマインドフルネスとの葛藤の記録(20代後半〜30代後半)としてくらいの価値はあるかもしれない。
なお筆者は、マインドフルネスに関する資格を一応持っているものの、それは以下の記事の内容が正しいことを示す保証には何もならない。資格というのは誰でも取れるものであって、読者はぜひ複数の情報源から吟味して、適切な取捨選択を行ってもらいたいと思う。
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※ 読む前の注意点として、経緯として持病のことを書くものの、マインドフルネスに内科や外科についての治療効果はない点には十分注意してほしい。自分は現代医学のおかげで生きているし、定期的な通院は一度も欠かしていなくて、通院は大切なことだと思っている。また、マインドフルネスの実施により健康状態や精神状態が悪化することも考えられるので、一人で実践するのはおすすめしない。
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非常に長くなりそうなので最初に結論を書いておくと、マインドフルネスは一つの道具として、自分にとって大切なものであり、そして自分が禅などに触れる大切なきっかけを作ってくれた。
マインドフルネスが好きなのは、前も何回か書いたように、ただの道具であるから。自分は道具が好きだ。トンカチや金づち、ノコヤスリや、さらにはタイピングやプログラミングやディープラーニング *1 。それらは、もちろん思想も内在しているのだけれど、ただの道具であるから自由な発想ができて良いと自分は思う。
もちろんルーツとなっている禅を知ることは、考え方を深めるための多少の手助けになってくれるかもしれない。知らない間は知りたいと思うかもしれないけれど、知ってしまえばなんだそんなことかと思うことばかりでもあるし、感想や体験については実際に取り組んだ人しか得られないものがあるはずなので、思想については自分は各人が自由なものを選ぶのが良いと思う。
だからこそ、そうやって思想を超えた、自由な道具としてマインドフルネスがあり続けてほしいと思う。
(おそらくここからが少し長くなる。そして、マインドフルネスだけでなくて、いろんなことを交えて書くことになると思うので、雑多になったら申し訳ない。)
胃腸炎とも実は関係が深くあって、自分は「ACTH単独欠損症」、つまりは副腎不全 *2 を持病として持っているので、特に胃腸炎などの感染症になると時々病院送りになって入院することがある。(いわゆるシックデイ *3 の関係と、服薬ができなくなると生命維持に支障が出るため。場合によっては入院などを通じて点滴や注射で薬を補充したりする。)
ACTH単独欠損症は指定難病になっていて、自分も毎年国の医療費助成を更新していてとても助かっているのだけれど、おそらく治ることはないんじゃないかなとも思っている。胃腸炎や風邪のようなことがなければ服薬によって普通に生活していられるし、最近ではステロイドの長期服用による副作用に悩んだり、その副作用を抑えるための薬の副作用に悩んだり(例えばコレステロールの薬や骨粗鬆症対策の薬の副作用でしばらく歩けなくなったり)したこともあるのだけれど、それはそれとして、最近は自分の宿命としてほとんど歯磨きするのと同じ感覚で受け入れつつはある。
で、マインドフルネスに出会ったきっかけは、20代後半に難病になったというのが大きかった。今は30代後半なので、難病との付き合いはもうすぐ10年になろうかというところになる。(病名自体が分かったのは、熊本地震の年だった。しかも熊大病院で精密検査を入院で受けたので、熊本地震の被害や対応があるなかでよく受け入れてもらえたと思う。)
自分が難病だと分かったとき、そしてもう一度社会復帰をしようとしたとき、自分は、同じ辛さを繰り返したくはないと思った。たとえ難病の原因自体が自分の先天的な性質にあったとしても、それでも当時、未だにパニック障害や睡眠障害などの副次的な病に悩んでいたので、少なくともそれによって悩みたくはないという気持ちがあった。
(なお、マインドフルネス自体に病を治す力はないと自分は思う。もし病が治ったとしたら、それは自分に元々備わっていた治癒力が最大限に発揮された結果であって、マインドフルネスは副次的なことに過ぎないし、以下は経緯として赤裸々に書くものの、何か目的を持ってマインドフルネスをしているとしたら、おそらくその期待は裏切られることになると思う。)
そんなときにたまたま手に取った、『最高の休息法』(久賀谷 亮 著)という本が、自分がマインドフルネスに出会ったきっかけとなった。
その後は、マインドフルネス、いや、「正しい休息法」というのが自分に欠けていたものだと強く実感して、マインドフルネスについて調べられることはとにかく調べた。
そして、坐禅体験が実際にできたのはだいぶ後になるのだけれど、写経体験などでできるだけ近しい体験をしようと努めた。(新婚旅行で京都に行ったときも、京都の禅寺に行ったりもした。どっちかというと嵐山のりらっくま茶房の方が印象的だったけど。)
何もわからず試行錯誤しながらマインドフルネスを実践して、一番マインドフルネスの効果を実感したのは、初めて睡眠薬なしで眠れた瞬間だった。
自分はそれまで、ひどい不眠症に悩んでいた。病気の治療を始めたら治るだろうと思っていて、実際かなりの部分で緩和したのだけれど、それでもまだ睡眠薬は完全には手放せないでいた(ホルモン調整薬みたいな効き目の弱いものに変えたりはしていた)。
それがマインドフルネスを実践してすぐ、初めて睡眠薬なしで眠れるようになったのが、とても印象的だった。実際そこからは、自分は睡眠薬を全く使っていない。
(もちろん、それはきっかけに過ぎなかったと思う。前述のように持病の発覚で対処療法ができるようになって、体調が回復していたので、素養が整っていたところに一押しあった、というだけのことかもしれない。)
あとはシンプルに、マインドフルネス瞑想などに取り組んだあとは、ご飯が美味しかったし、お風呂は気持ちよかったし、布団の温かさや柔らかさをすごくよく感じるようになった。マインドフルネスに病を治す力はないと思うけれど、この、体感覚を最大化してくれるのは、マインドフルネスのすごいところだと思う。
そうやって、本格的に社会復帰するまでの間(アルバイトの間)、マインドフルネスの助力のおかげもあって体調はだいぶ良くなっていた。
その後、正社員として社会復帰をするのだけれど、実はその前に一度体調を崩している。たしか正社員前の試験雇用のような感じでバイトとして3ヶ月働いて、それが終わろうという頃くらいの冬直前の、風邪が流行っていた時期だった。
これはマインドフルネスとは直接的には関係なくて、単に持病のシックデイによるもので、風邪を引いてダウンしただけ。
過去のバイトのときもそれは何度もあったのだけれど、その時は実家で療養中だったのもあって家族の支援ですぐ職場復帰できたのだけれど、このときはもう実家から離れて妻と2人で都会生活をしていたのもあって、対応の遅れもあり、後を引く結果になった。
これは自分にとっては結構ショックだったし、マインドフルネスなどでいろんな対策をしてきただけにショックは大きかった。それでも、当時の職場の人たちは自分を受け入れてくれて、その後時間をかけて体力を回復させて、無事職場復帰した。
このエピソードは、マインドフルネスに過度の期待をしてはいけないというのを自分に教えてくれたし、今はホントそう思うのだけれど、そもそもマインドフルネスに何も期待してはいけない。このことについては詳しく後述したいのだけれど、この期待をしないということに実は大きなパラドックスが存在している。
さて、正社員として社会復帰を果たした後、一番悩んだのはマインドフルネスとの折り合いだった。
実はこの頃の悩みは今思うと比較的軽くて、その後数年して宝泉寺禅センターで3日間の坐禅体験をした後の方が、マインドフルネスと仕事の折り合いに強く悩んだのだけれど、この時も社会復帰してすぐだったのもあって悩んでいた。
当時の自分はマインドフルネスはリラクゼーションだと捉えていたので、マインドフルネスをすればするほど、リラックスしたほうが良いのだと思っていた。それで、一種のマインドフルネス信仰があった自分は、仕事との折り合いをいつも悩んでいた。
そしてそのだいぶ先になって知ることになるのだけれど、マインドフルネスには、一種のパラドックスがあるということを知る。
そのパラドックスというのは、求めないでいれば、欲求が収まり、感覚が研ぎ澄まされることによって何もかもが幸福に感じるし、良いことが多く起こるということ。
ただし、今思うと「良いこと」というのは主観でしかないのだけれど、このパラドックスは自分にとってマインドフルネスを続ける大事なポイントとなっていった。
先に書いたように、マインドフルネス瞑想などの後は、食事は美味しく感じるし、様々な感覚が研ぎ澄まされる。そして、時間感覚が非常にゆっくりで余裕が出るし、本当に自分がすべきことが整理されていて思考が明確になるので、このパラドックスがあるのは自然に頷(うなづ)けた。
ただ、先程の「良いこと」と同じように、これは半分は誤りだというのは今の自分は知っているけれど、当時の自分はよくわかっていなかった。だからこそ、その後何度もマインドフルネスとの向き合い方を変えることになるし、全くマインドフルネスについて考えなかった時期もあれば、逆にもっと深い部分が知りたくて禅に傾倒したりなどもした。
ちなみに先に結論を書くと、マインドフルネスによって感覚が研ぎ澄まされるのは間違いないのだけれど、それによって起こるのは良いことばかりではないということ。先に書いた、リラクゼーションとの葛藤とか、仕事がしたくなくなるみたいなのもその一つだし、時間感覚がゆっくりになるということは、人によっては人生がつまらなく感じることにもなるかもしれないし、目的意識が薄れたりすることもある。
当時の自分は健康な日にだけマインドフルネス瞑想などを行っていた(入門書にそれがおすすめだと書いてあったため)のだけれど、これは本当に良かったと思う。実際、体調の悪い日にマインドフルネス瞑想をすれば、自分の苦しい部分や辛い部分に直接向き合うことになり、辛さが増すことも考えられる。
だからこそ、自分一人での実践はできるだけ避けてほしくて、適切な入門書および専門家の下で実践してほしいなと思う。何度も繰り返すけれど、そもそもマインドフルネスに効果を求めるべきではない(求めてもいいけれど、期待通りの効果が返ってくるわけではない)。マインドフルネスはあくまで自分の感覚を研ぎ澄ませたりして、自分の能力を引き出すだけで、それが良い方向に振れるか、悪い方向に振れるかはある意味でその時次第。(なお、良いや悪いについての捉え方については、まとめの章で挙げている「ありのまま」についての考えも参考にしてほしい。)
その意味では、この後に書く禅との出会いは、マインドフルネスを正しく利用するために自分にとって重要だったのだけれど、正直書くべきか悩みつつも、ここを抜きにしては語ることはできないと思うので、続けていきたい。
正社員として社会復帰して3年くらい経ったある日、コロナ禍に見舞われた。そして、コロナ禍の影響で経営にもインパクトがあったことから、会社内でもいろんなトラブルに見舞われた。
最初、自分はコロナ禍を良いように捉えていた。自分は在宅勤務を半々で使っていたのでビデオ会議には慣れていたし、コロナ禍のおかげで遠方のイベントが遠隔参加できるようになったので、とても喜んでいた。(この記事とは直接関係ないものの、デジタルスカルプトを本格的に始めたきっかけも、コロナ禍で造形作家の森田 悠揮 先生が有償のオンライン講演会を開催したときに参加したのがきっかけとなった。)
ただ、コロナ禍も長期化するにつれて、弊害が大きくなっていった。そして、結果的に自分は職場を離れることになる。
3ヶ月ほど働くことのできない期間、失業給付の受給期間があったので、どうしようか悩んだ。そこで思いついたのが、坐禅体験に行くことだった。
検索してすぐにヒットしたのが京都の宝泉寺禅センターだった。
今思うとコロナ禍でよく受け入れてもらえたものだと思うのだけれど、当時の自分は無鉄砲だったので、返答を待たずに新幹線で京都に移動していた。(コロナのワクチンができてすぐのことだったので、ワクチンは既に打っていた。ただ、今思うとワクチンを打っていたから安易に外出してよかったかは反省の余地があるところだけれど、当時はそれを判断するための十分な情報はまだなかった。)
連絡が来なかったり受け入れてもらえなかったら単純に京都旅行を満喫して帰ろうと思っていたのだけれど、幸いにも受け入れてもらえて、3日間の泊まり込みの坐禅体験をした。
コロナ禍であったので、感染対策には十分に気をつけての実施となった。本来は禅堂で全員が寝泊まりをするのだけれど、各人に一部屋与えられ(自分は飛び入りだったので禅堂の隅に寝泊まりした)、風邪症状が出る人がいればすぐ対策会議が行われて隔離されたり、様々な制約があるなかでの実施だった。
記憶では、食事の際の所作についても、本来はこうだと説明されながらも、コロナ禍で感染対策に配慮した所作に変更がなされていた。今思うと素晴らしい対処だったと思う。(自分が飛び入りで受け入れてもらえたのも、元々柔軟に対応している場所だったのと併せて、ワクチンを打っていたからというのもあったとは思う。)
坐禅体験は自分にとって忘れられないものになった。いつかもう一度体験したいし、覚えていることを書き残したい(たしか過去に記事にしたこともあったようには思う)けれど、正直ここには書ききれないし、あまり書くとマインドフルネスとは無関係になってしまう。(マインドフルネスは宗教とは切り離された道具であるので。)
少なくとも禅についての原体験は自分はここがスタートだったと思う。元々実家が田舎で周囲にお寺がたくさんあったので、仏教などには親しみはあったのだけれど、禅寺というものに行ったことはなかったので、素晴らしい体験となった。
個人的に3日で終えるのはとても名残惜しかったのだけれど、あまりのめり込みすぎると仕事がしたくなくなりそうだとか、シックデイなどのリスクを持つ自分が長居すれば大変なことになるなどのいろんな思いがあって、苦渋の決断で3日で自宅に戻った。
ちなみにこの3日目の朝に宝泉寺を出てから京都市内を旅行したのだけれど、その時の心地よさというのは本当に印象に残っている。今でも京都の様子が鮮明に思い出されるようでもあったし(ちょうど祇園祭の時期でもあった)、自分がこんなに楽しく外出ができたことが過去にあっただろうかと思うほどで、おそらく退職後の開放感もあってのことだったと思うけれど、坐禅体験の一つの効果として、とても印象に残っている。
自分が京都での坐禅体験から戻って変わったこととしては、毎朝お味噌汁を食べるようになったことと、「作務」を実践するようになったことが挙げられる。
お味噌汁については、実家で元々毎日お味噌汁を食べていたのを、妻との2人暮らしでは朝はシリアルなどで済ませていた。それが、宝泉寺での精進料理があまりに美味しかったのが忘れられず、毎日あの手この手でお味噌汁を作るようになって、それは今でも続いている。
「作務」というのは、禅寺でいうところの奉仕作業のことで、掃除や洗濯などの単純作業だと思ってもらえれば良いと思う。禅では作務は修行の一環とされていて、実際、ただ黙々と掃除などをしていると心が洗われるというか、気持ちが落ち着くというのもあって、坐禅体験から帰ってからは作務に向き合うようになった。
これは、それまで面倒くさがりで細かな作業が苦手だった自分を、大きく変える出来事になったと今では思う。作務に向き合うことで、それまで疎かになっていた細部の細かなところや、単純作業の価値に気付くことになり、自分の価値観を大きく変えたように思う。
ちなみに、あまり宗教については触れないでマインドフルネスについて語りたいと思っていた節があったのだけれど、これだけは少し話しておかないといけないと思うので、挙げておきたい。
自分が坐禅体験をしたのは宝泉寺で、臨済宗のお寺だった。他に禅宗と呼ばれるものは大きく臨済宗と曹洞宗、そして黄檗宗がある。自分は残念ながら黄檗宗については詳しくないので、曹洞宗との違いだけを書いておきたい。
一番違うのは、坐禅をするときのスタンスだといわれている。
臨済宗は、悟りを開くことを最終目的として坐禅などの禅行に取り組む。一方で曹洞宗は、只管打坐といって、ただ坐る(すわる)ことを美徳とする。
また、いわゆる禅問答があるのも臨済宗の特徴で、看話禅ともいわれていて、公案という課題を師から与えられる。
さて、なぜ臨済宗と曹洞宗を挙げたかというと、この後に自分がマインドフルネスに取り組むときに、スタンスに悩んだからに他ならない。
ただ坐る、只管打坐であるべきなのか、悟りを目指すべきなのか。
率直に今のスタンスを書くなら、自分は(都合の)良いところだけをうまく取り入れた形になっているように思う。坐禅をするときは只管打坐であるように努めているし、特に宝泉寺で強く勧められた、丹田に力を入れる呼吸法などは、今の自分は実践していない。
一方でたまに読む本といえば臨済宗のものが多いし、禅問答は単純に読んでいて面白いと思う。その程度といえばその程度で、この後に書くように、一時は仏教書などを読みふけった時期もあったけれど、今の自分は特に仏教にこれといった執着はないし、どっかに入門したわけでもない。
だからこそ、マインドフルネスをシンプルに道具として気に入っているし、万年筆のようなものくらいのスタンスでいる。
ただ、禅を一度体験したことによって、マインドフルネスをエゴのために使うべきではないというのはこれを機に強く心に留めている。これについては以下の藤田一照さんの動画が詳しい。
その後、案の定というべきか、暇な時間が多くあったのもあって、禅に関する書籍や仏教に関する書籍を読みふけった。
先程書いた、只管打坐などに対するスタンスは、今の自分が持っているスタンスなだけであって、当時の自分はまさに迷いのなかにいた。
そして、やはり悟りとは何なのかを知らなければ決めることはできないだろうと思い、悟りとは何なのか、八正道とは何なのかを詳しく学ぶことにした。
悟りについては、玉城 康四郎 先生の『悟りと解脱』が詳しく、実体験を多く踏まえてあったのもあり、特に腑に落ちた。(この本を読んですぐ、悟りとは何なのかを一瞬だけ垣間見れたような気さえする。ちなみにこのことを小さな悟りと書いて小悟と呼ぶこともあるらしい。つまり自分が見たのは悟りではないってこと。)
八正道については、『8マインドフル・ステップス』(バンテ・H・グナラタナ 著)が詳しいが、実は残念ながら出版社が倒産してしまい、絶版になっている。(どこか再販してくれないか強く願っている。)
ちなみに、このサンガという出版社の本はマインドフルネス入門者にとって貴重な書籍が多く、特に『マインドフルネスを越えて(Beyond Mindfulness)』(バンテ・H・グナラタナ 著)は、当時の自分にとって最も印象に残った書籍になっている。この本も玉城康四郎先生の本と同じくらい、悟りとは何かについてとても詳しい内容になっていて、マインドフルネスとの繋がりを示してくれる点で貴重な一冊。
なお、(本ブログ記事の)この章のタイトルに「放棄」とあるように、今の自分はこれらの書籍をさほど読まないようになっている。
大切な本であることには変わりないので、棚にしまってあって、本当に時々、年に1,2回くらい眺めることはあるのだけれど、基本的には読んでいない。
当時は仏教聖典すらも読むくらい、研究熱心に読みふけっていたのだけれど、今の自分にとってはどちらでも良いものになっている。
これについて、正直書くべきかとても悩んだのだけれど、マインドフルネスについてのスタンスを書くのだから、ここまできちんと経緯を辿ってきたし、これも書いておかなければならないと思う。
自分は率直に言って、今も昔も無宗教だと思う。普通の日本人と同じように、クリスマスを祝った後に、寺で除夜の鐘をつき、神社で新年を祝う。
自分はこの無宗教というのを、すごく愛している部分がある。
自分自身、いろんなものを取り入れて生きているし、マインドフルネス自体もアメリカから逆輸入したものを学んで、後から禅に触れている。
あと、ここまで書いたのでせっかくなので書くと、坐禅体験をして数年後くらいにふと老荘思想に出会うことがあり、老師の考え方には特に強い影響を受けている。
それに、自分は大学時代の友人が熱心なクリスチャンで、いろいろ良くしてもらって教会にも連れて行ってもらった。『聖☆おにいさん』という漫画も、その時の影響があってかなくてか、とても好きな漫画の一つ。
また、実家である人吉球磨が水害で青井神社の鳥居などが流される被害に遭ったとき、実はそこで挙式をあげたのもあって、ひどく心を痛めたりもした。(この話とは少し関係ないけれど、人吉球磨は夏目友人帳の舞台になってるほど、神社仏閣がたくさんある地域でもあり、子供の頃何気なく遊んでいた場所に、遺跡やお地蔵さんなどが身近にある地域でもあった。ちなみに人吉球磨の禅は黄檗宗が中心のようだけれど、自分は実はよく知らない。)
…自分は、それでいいと思っている。日本人の無宗教って、それはそれで一つの美徳ではないかと思ったりするときさえある。
たまに自分は無宗教であっていいのかと思うことがあったりもするし、ここまで禅や老荘思想を研究しておいて無宗教はないだろうと思うときもあるのだけれど、自分は大学時代の師が比較文化学が専攻であったこともあるのか、それは比較文化学の研究の一環なのだと思うようにしている。
さて、ここで最後にマインドフルネスについてのスタンスに戻ってくる。
自分は結局その後にまた転職して再就職して、今も普通に正社員として働いているのだけれど(未来のことはわからないけれど)、今も至って普通に毎日働いている。
最初の方にちょこっと書いた「歩けなくなった」のも実はこの転職時期くらいで、当時の自分は本当に思い悩んで、波はあったものの約8ヶ月ほどの期間、リハビリなどに向き合って、もう一生歩けないのかと思ったくらいだった。(結果的には薬の副作用だったので、原因になっていた薬をやめた途端にケロッと治った。)
そうやっていろんなことを経験して、仏教や老荘思想についてもいろいろ調べた上で、今も自分はマインドフルネスは大切にしている。
毎日ではないけれど坐禅を組んで心を落ち着けることもあるし、マインドフルネス瞑想をして、ゆっくり丁寧にご飯を食べることもある。
その一方で仕事が忙しくなれば食事も多少疎かになるし、マインドフルネスとは無関係に持病も変わらず共にあるし、持病が判明してから10年が経過した分だけ、年齢やその後の副作用に悩むこともある。
こう書くと、マインドフルネスというのは、正直どちらでも良いというのはわかっていただけるのではないかと思うのだけれど、事実として、マインドフルネスのおかげで不眠症が治ったので今も毎日健康にいられるのは確かなことだろうし、マインドフルネスを適切に実践しているときが一番心身が健全であるようにも思う。何より、マインドフルネス瞑想のあとはご飯が美味しいし、布団は温かい。
さて、こんなに長い記事を書いて、何を最後に伝えたかったのかといえば、考え方や哲学などは自由に選んでほしいということ。
ここまで長く書いたんだから、マインドフルネスを勧めればいいじゃないかと思うかもしれないけれど、正直どっちだっていい。自分が無宗教なのと同じくらい、宗教も正直どれを選んだっていい。
というか、期待しすぎないくらいがちょうどいい。それは、欲求のパラドックスとして、前述の通り何度も挙げているように、期待しすぎないくらいがちょうどいい。
でも、意志力も同じくらい大事なのは、禅が教えてくれる一つの大切なことだと思う。老荘思想のように完全に無為自然とは言わないで、瞑想に向き合うところが、自分は人間的でなんとなく好きであったりもするし、でも時々は老荘思想くらいの自由さや気楽さが好きだなと思ったりもする。
本当に自由だけを伝えて、あとは何も伝えないで終わるのも良いのだけれど、せっかくなので仏教用語の一つでも取り上げて、さもありがたく終わっておこうかなと思う。
仏教の言葉に「一切皆空」というものがある。自分がこの言葉から学んだことは、人間は2つ以上の状態を同時に持つような、例えば量子力学のようなものはなかなか想像ができないということ。
このことは、マインドフルネスを始めてからも、禅の思想を知ってからも、大切にしていることの一つ。
「ありのまま」という言葉がよくマインドフルネスで使われているけれど、この「ありのまま」という言葉はすごく誤解されているように思う。
ありのままでいて良いと言われたら、何も努力しないでいいのだろうと思うし、自然に生きろと言われたら、人間的な社会的活動は無視していいのかとすら思ってしまうと思う。
でも自分の考える「ありのまま」というのは、そういう意味ではない。現実をありのままにそのまま捉えなさいということだと考えている。
しかし現実というのは、非常に多くの情報を持っていて、多面的で、一つの言葉で表しようがなく、量子力学のように複数の状態を取り得る。
だから、ありのままを捉えるというのは、すごく難しい。
この観点では、良し悪しや上下の区別もないだろうし、見方によっては何も無い、「空」だという見方もあると思う。(禅が念仏などの言葉よりも瞑想などの実践を大切にしたのも、おそらくここにポイントがあるのは間違いない。)
けれどこの「空」とか「無我」というのは、もののたとえというか、実際に本当にそうなのだけれど、量子力学などを知っている現代に生きる自分たちは、仏教が発明されたときよりももう少し「空」の意味を正確に捉えることができるのではないかなと思う *4 。
もちろん量子力学だって完璧ではないし、超ひも理論だって証明されたわけじゃない。でも「空」が実際に今目の前にいる私たちや物体を形作っているのは確かで、そのありのままを捉えるというのは、すごく難しいことだというのはわかる。
そして、仮にそこに良し悪しや上下の区別のない世界があったとしても、だからといって私たちが自分勝手な行動をしても良いかといえばそうではないし、他人にとって嫌なことをしていいかといえばそうでもない。そういうバランスを禅は教えてくれているような気がする。
ちなみにマインドフルネスはそこまでは教えてくれない。だから好き。だからあなたも、自由な哲学を選び取ってもらえればと思う。
マインドフルネスが教えてくれるのは、目の前のことを見ているようで、私たちは実は見ていないんだよ、ということ。そして、感覚を研ぎ澄ませば分かることが実はたくさんあって、安心感というのは、何も無いところからも生み出せるんだよということ。(だからこそ、マインドフルネスを実践するのは、心身が健全なときが望ましいけれど、痛みなどで辛いときに自分を支えてくれているのもまた事実。)
自分が上に書いたような能書きは、綺麗さっぱり忘れてもらって良い。その代わり、もっと「ありのまま」を捉えることができる、あなたらしく、そしてみんならしく生きることのできる、もっと良い哲学を見つけてほしい。
記事としては上記で終わりなのだけれど、記事を書いて少し時間が経ち、なぜ不眠症が治ったのかについて少し言及しておくべきなのかなと思ったので、これも記録として書いておきたい。
そして、このことについてきちんと書くことが、マインドフルネスについて正しく理解してもらえる一助になると信じている。
マインドフルネスによって、自分が当初目的としていた、不眠症の解消と、パニック障害の克服には大きく貢献した。これは確かな事実。パニック障害はまだ完治はしていない *5 ものの、主にマインドフルネスの実践によってずいぶんと軽減した。
しかし、だからといってマインドフルネスに期待してはいけない。その理由をここから少し書くつもり。そしてここから書くことは、先に書いたパラドックスとは違う、マインドフルネスの負の側面が描かれることになると思う。
なぜマインドフルネスが不眠症を治すことに貢献したのかについて、以下の2つの理由があると自分は考えている。
そして、ここから書きたいのは、この恐怖について。
瞑想中は、おそらく経験者は知っての通り、様々な不思議なことが起こる。これを仏教では「マーラ」という悪魔になぞらえることがある。この不思議な体験、恐怖を、短時間で、かつ日々の習慣として乗り越える訓練をすることが、安心感の獲得と、恐怖症の克服に大きく貢献すると自分は考えている。
そしてこれが、自分がマインドフルネスは心身が健全なときに行うべきだと思う一つの確固たる理由となっている。
マインドフルネス瞑想、そして坐禅、瞑想を行うと、様々な恐怖を体験することになる。例えば足の感覚がなくなる、上下の感覚がなくなる、今までAだと思っていたものがBに見えたり、AでもBでもなくなったり、溶け合ったり。そして、経験したこともないような感覚を覚えたり。
これは正直言って、非常に恐ろしいことだと思う。自分は当初、この域に踏み込むことが怖くて、恐怖で5〜15分以上は瞑想ができないでいた。(この段階に留まれば、マインドフルネスはリラクゼーション程度に感じることだと思う。人によっては実際その程度に留めておいた方が良い。)
率直に言って、足のしびれが最初は一番怖かった。足がしびれたら、もう足が戻ってこないのではないかと思ったくらいだった。
でもその懸念は、宝泉寺の坐禅体験で、みんなで乗り越えた経験によって脱した(※ 厳密には、3日間の体験でヒントを得て、そこから長い時間をかけて脱することができた)。これが、私がマインドフルネスを一人で行うべきでないと考える理由でもある。
しかし、長い年月をかけて、自分はそのハードルを乗り越えることができた。そうすると、それまでにあった多くの恐怖のハードルも、不思議と消えていくことがわかった *6 。瞑想中に起こる非常に恐ろしい体験も、長くは続かないということを知った。(これは、先に書いた小さな悟りが小悟とすれば、中悟くらいにはあたるかもしれない。)
この、日常では経験できない、乗り越えることの難しい恐ろしい恐怖を、瞑想で訓練として乗り越えることができるというのが、私が思う不眠症や恐怖症への効果だと思っている。
ただ、正直言って本末転倒になり得ることでもあり、曝露療法+認知療法を同時にやっていることとほぼ等しく、医師とともに現代的な曝露療法・認知療法をしたほうが、安全に効果的に実施できると確信する。これが私が、マインドフルネスは安易に行うべきでないと考える理由になっている。
曝露療法によって、パニック障害などが悪化したり、かえって引きこもりになってしまうことがある。どんなに安全な医療機関で行ったとしてもそうなのだから、一人で安易に行えば、なおのこと。
上の、長い長い記事を書いたとき、マインドフルネスの負の側面や、不思議な効果について、明文化がうまくできていなかったと反省した。だからこそ、もしマインドフルネスに興味が出た人がいたなら、この負の側面、そしてもしかすると、その恐怖がさらに別の影響を与えて健康状態や心理状態を悪化させる危惧(これを禅病などとも呼ぶ)を、天秤にかけた上で実践していただきたいと、強く願う。
*1:ここでディープラーニングを挙げていることについて、過去に自分が仕事などでAIを熱心に研究していたからなのだけれど、正直、生成AIについてはいろんな感情が混ざり合っていて、複雑な気持ちを持っている。それによってAIの探求をやめたりした経緯もあるのだけれど、これについては今回書ききれないので、また別のときに書きたい。
*2:副腎不全と腎不全は異なることに注意。
*3:シックデイについてはこちらのPDFの説明がわかりやすい。ここでいうシックデイとは、風邪などの身体負荷によって急性副腎不全を起こす前触れのことをいう https://kannoukasuitai.jp/archive/file/20180210_2.pdf
*4: 一切皆空などの仏教概念(仏教哲学)と現代科学の対応関係については、前述の玉城康四郎先生の書籍が詳しい。
*5: パニック障害が完治していないのは、自分のパニック障害の根幹には、持病のシックデイが原因となっていることがある。つまりパニック障害と呼んでいるだけで実は本当は(すべてが)パニック障害ではないので、必要な警戒心であると捉えている。そしておそらく多くのパニック障害の人についても、同じことがいえるはずなので、内科や外科なども含めた定期的な検査と通院が大切だと思う。
*6: 恐怖心について、あまり書くとくどいかもしれないが、恐怖心というのは消すべきものでもない。身体に備わった必要な機能なので、必要になれば出てくるし、必要なくなれば不要なものは離れていく、ただそれだけのことだと思う。雑念についても同様のことがいえ、手放すというのはそういうことではないだろうか。なくそうとすればかえって暴れ、気にならなくなればいつの間にかいなくなっている(ように感じる)。これが意志や関心のもつパラドックスだと思う。