投稿日: 2025/07/21 17:54:26
カテゴリ: キー配列研究
サムネイル: なし
あんまり自作配列の話ばっかりしてもしょうがないなとは思ったのだけど、元々このブログの当初から配列ネタばかり書いていて、それ以外のことも書いてはいたけど今ほどではなかったかも。
(下記内容は練習がてらの雑談が主。)
ちなみにこういうときはObsidianにひたすら書き綴ることが多くて、それがきっかけで当時日記をつけていた三年日記がちょうど切れたのとあわせてデジタル日記に移行してもうだいぶ長く経つ。
こないだも書いた気がするけど、日記(手記)はObsidian、日誌と手帳はLogseqで定着している。管理はGitで、iOSではWorking TreeというGitアプリがあるおかげで使えている。(同期はオートメーション等で自動化している。)
そこに最近、アートボードを書くために自鯖でAffineを使い始めた。LogseqやObsidianでもOKなんだけど、Git LFSが重くなりそうで嫌で、同じフローチャートやホワイトボードでも画像の有無で使い分けてる。元々はHeptabaseをこの用途のために契約していたけれど、ObsidianやLogseqと役割が被りまくりで、費用対効果に途中から懐疑的になって、今に至る。
ちなみにObsidianやLogseqに書いたことがブログや仕事の元になることもあるし、そうでないときもあるし。
いま、もちろんのことJIS下駄で打っているのだけど、こうやって新しい配列の打鍵練習をするのは多分かなり久しぶりで、この感覚が本当に懐かしいなと感じながら打っている。
配列練習っていろいろあるあるがあると思うのだけど、いつもよりすごくゆっくり打ってるせいで異様に推測変換に頼りがちになってしまっている気がする。
もちろんそれじゃ練習にならない感はあるのだけど、案外、推測変換を使っても打つべきことはたくさんあるので、普段は正直打ったほうが速くて全然使ってないけど、こういうときはホントありがたみを感じる。
ゆっくりゆっくり打つがゆえに、普段よりだいぶ無駄な言葉を打つのを控えようと感じたり、言葉を選んだりするので、こういうのもたまにはいいかもしれない。
小さい頃からずっとピアノを練習していて、体感的には寝て一日経たないとあまり神経などは成長しない印象を持っていたのだけど、こうやって練習してると必ずしもそうでもないのかなという感じがしてくる。
打ちながらもいろんな変化があるし、急にスムーズに打てるようになる瞬間があったりして、とても不思議。
JIS配列(かな入力)といえば、たいていの人は子どもの頃一瞬使って、すぐローマ字配列に移行したという人が大半じゃないかと思うけれど、自分にはもう一つ思い出があって、それは祖父が書いていた手記の記憶。
祖父が亡くなる何年か前、熱心になって手記をつけていたのを横で見ていて、そのとき使っていたのがJIS配列(かな入力)だった。
祖父は記憶が正しければローマ字でも打てていた。多くのJISかな入力打者がそうであるように、ローマ字も打てないと仕事にならない。
……というか、書いていて思い出したけれど、祖父は自分が物心つくかどうかくらいのときに、BASICでプログラ厶を書いていた。祖母いわく、連続電算用紙の印刷機がうるさくて寝付けなかった日もあったようで、自分もその光景はうっすらとだけ覚えている。そんな祖父がローマ字配列が打てないはずはない。
自分が薙刀式や新下駄などのかな入力に興味を持ったのはコロナ禍がきっかけだったのだけれど、その時最初に浮かんだのがそのことで、そのときは残念ながらJISかな入力は練習はしたものの採用はしなかった。ただ、それ以前からポメラの影響で親指シフトはたまに打っていたので、かな入力の楽しさというのはこういう部分なのかという体感はあった。
きっと祖父も自分と同様に、実用性よりも体感やリズムを重視していたのかもしれないし、単になんとなくかもしれない。
昨日今日いくつか記事を書いていて、JISという言葉の指す曖昧さにちょっとだけ悩んだ。
JISかな入力は、かな入力と付けなければ、JISだけだとキーボード種類を指すかもしれないし、配列という言葉自体も曖昧だし、JIS下駄というとJISキーボード上の下駄配列とも読めるかもしれない。(それに新JISの存在もある。)
でも、JIS下駄は中身はJIS+新下駄以外に表現しようがないので、JIS下駄以外の呼びようがない気もする。新下駄配列の要素なくない?ってもし言われたとしても、打っていて確実に新下駄ファミリーであり、「っ/く/う」の配置も拗音レイヤーも、新下駄配列の亜種だと思いながら自分は打っている。
JISではないし、新下駄ではないんだけど、JISであり、新下駄。……ミックス配列の悩みであり喜びなのかもしれない。橋渡しの役目だけしてチラ見で通り過ぎてもらうのか、橋にも役目や価値があるのか。